【ヒゲ先生のコラム】悪ガキ奮戦記/社会科の授業扁
「愛知県は自動車工業がさかんです。はい、いいですね」
と、その新任の女性教師は教科書にかかれているとおり言った。
当時、私は、北中の1年4組に所属していた。東大を出たというその女教師は最初は興味津々だったが、我々悪ガキ連はまもなくその授業に興味を無くしてしまった。おしゃべりをするのはいい方で、教室内は消しゴムを投げるやからまで出現。完全に学級崩壊である。50分だかの授業時間は先生の「静かにしなさい」のヒステリックな怒声ばかりになった。
副学級委員だかを務めていた私は、すくっと立ち上がって
「先生、生徒を注意するばかりで無く、もっと先生の授業を工夫したらいいんじゃないですか!」と正義の発言。
すると、先生は授業をやめて、急に教室を駆け出していった。あとで女子に「先生、泣いてたよ」と指摘された。
その晩、ウチの応接間にはクラス担任と教頭先生がきていて、私はその前で肩をすぼめてすわっていた。祖母から縁起のいい日は茶柱が立つとおしえられていたが、その日の茶碗の中には横になった茶柱がうかんでいるばかりだった。
やがて、「深谷クン、もっとオトナにならないと・・・」と、教頭先生が発言。深谷クン(つまり私)は、唇をかんだ。
当時教育委員会にいた父は、もちろん、あっちの味方であった。
ぜったいボクが正しいと思ったが、私は沈黙を守った。みだりに正論をはくとこっぴどくつるし上げられることがあると知ったのはその時である。
団塊世代の東大は、受験生の数も多かったし令和の今よりも入るのが桁違いに難しかった。そこを卒業してこられた先生はプライドも高く、ボクら悪ガキ連の中ではちっとはましだと思っていた副学級委員が反旗をひるがえしたので、かなりショックだったのだろう。
──ところで、世の中には『会社四季報』なる分厚い情報誌がある。日本全国の会社の情報、たとえば、営業成績や社員の平均給与などがのっている。株式投資が趣味のオジサンたちだけでなく、就職活動をはじめると学生たちは四季報をもってあちこち会社訪問をする。
その時期にさしかかり、親友が雑司ヶ谷の私のアパートをたずねてきた時、その話題になった。世の中は就職氷河期と呼ばれていた。私の部屋のあまたある書物を見わたして「そうだな、この部屋には四季報なんて、ないよなあ」と言ってクスッと笑った。
二十代のほとんどを脚本家になるための修行に打ち込んでいたウブな私は、就職活動とは無縁だったのである。
で、なんでこんな話をもちだしたかというと、学校の先生になろう(あるいは塾講師でもやろう)という種族は、フツウの就職活動とは無縁のことが多く、会社四季報などを目にしないまま大学の卒業を迎える。世の中の実相(じっそう/ありのままの姿)を知らないままに大人になる。
そして、それは、社会科の授業の貧困につながることがあるという話。
「愛知県は自動車工業がさかんです。はい、いいですね」
と言われても、我々悪ガキ連は興味をもつことはできない。
──でも、例えばの一例として、授業の導入時に
「あのね、愛知県には日本一の大企業があってさ、もちろん、世界中に製品を売りまくっているメーカーだから世界のあちこちに工場をもってるんだけどさ、本社は愛知県にある。一年に2兆円以上の利益がある会社。たとえば、この塾の年間利益はたった約20万円ほどだから、比較にならないほど、すげえだろ。プリウスやレクサスっていうブランドのあるあの会社だよ」
この辺までヒントを与えると、生徒の中の誰かから「トヨタ」という固有名詞が出てくる。
しめたと思ったら、
「あのね、中部地方のこの地域はもともと繊維産業がさかんだったの。明治時代に豊田佐吉という天才がいて、自動で糸を紡ぐ機械を発明して巨万の富をえたらしい。その子孫が自動車生産をはじめたんだって。トヨタといったら自動車工業にきまってるけどさ、グループ内にはトヨタ自動織機というもともとの会社も今もってあるんだぞ。だからね、愛知県といったらなんていってもトヨタがあるから自動車工業がさかんてことになるんだな」
なーんて話してくれたら、悪ガキ連にも興味を喚起させることができる。資本主義の世の中だから、今時の子供たちは「お金」の話をするとたいてい目を輝かす。興味をいだかすことができたら覚えなさいなどといわなくても頭にはいるものだ。
生徒たちの頭の中に、自動車工業の強い実相、印象がうまれるからだ。
東大合格者は、一市町村に一人くらいしかいなかった時代である。名誉のためにいうが、その女先生は大谷翔平クラスの天才だったわけである。だから、興味なんかもたせてくれなくても、「愛知県は自動車工業がさかん」とマル暗記できる才能の持ち主なのである。なんでも次々に頭に入れてしまう特別な才能。
でもね、天才でもなくたいした秀才でもない我らが悪ガキ連には、授業をどうふくらましてくれるかがとっても大事なんですよね。
日本脚本家連盟員
深 谷 仁 一